レース観戦

横浜マリーナ会員の斎藤智氏が執筆した大人のためのクルージングヨット教室を題材にしたマリン、セイリングクルーザー小説。

クルージング教室物語

第30回

 全てのレース艇がスタートラインを越えて
スタートして行ってしまった。

「ここで待っていても仕方ないから、ちょっ
とレース観戦しに行こうか」

 隆は、皆にそう言って、スタートラインの
ところに停泊していたラッコのアンカーを上

げてヨットを走らせた。

 ラッコの船のアンカーは、船の最前部、バ
ウスピリットに付いていて、船内の操舵シス
テム内のボタンを押すだけで電動で自動的に
上げ下ろしできた。
 バウスピリットには、ラッコが進水したと
きに麻美が見つけた女神ならぬラッコのフィ
ギュアヘッドが付いていた。

 さっき、レース用のブイを打つときは、雪
とルリ子が重い、重いと苦労して打っていた


が、ラッコのアンカーはそんな苦労をする必
要がなかったのだ。
 アンカーを上げると、そのままエンジンを
始動して海面を走っていくだけだ。

 いつもならば、走り始めてすぐにセイルを
上げてセイリングをするのだが、今日はレー
スの本部艇をしているので、機走でエンジン
だけで走っている。

「すごいね!一番だね」

 麻美は、望月さんのヨット、船名シリウス
が、他のどのヨットよりも遥かに先頭を走っ
ていくのを見て言った。

 シリウスは、船内の無駄なものは一切排除
し、背の高いマストに大きめのセイルで、セ
イリングで出来るだけ速く走れるように建造
されている。

 隆の話では、シリウスは横浜マリーナのク
ラブレースでは、常に一番を走っているそう
だ。乗員たちのレースに対する気合いも、ほ


かのヨットの乗員たちとは違うようで、屈強
な男性たちがお揃いの赤いユニフォームで、
デッキ上にずらっと並んでいる。

「どうして皆、片方に一列に並んで座ってい
るんだろう?」

 ルリ子が、麻美に素朴な疑問を聞いた。片
方にばかり並ばなくても、ヨットのデッキは
広いのだから散らばれば良いのに。

「皆でヒールを平らにしてるのよ」

 ヨットは、横からの風を受けて、ヒールと
いって横に大きく傾きながら走る。
 レース艇では、この傾き、ヒールを出来る
だけ平らにしながら走るのだ。
 そのためにセイルに付いたロープで微調整
をしながら走るのだが、微調整が終わって、
手が空いた乗員たちは、シーソーのようにヒ
ールで傾いている船の上側に乗って、傾きを
抑えようとしているのだ。

 なぜ、ヒールを抑えて平らにするのかとい
うと、その方がヨットが速く走るからだ。


 麻美はルリ子に説明してあげた。

 一番先頭を走っていくシリウスを追って、
ほかのヨットの乗員たちも一生懸命ヒールを
抑えて、懸命にシリウスを追っている。

 追っているほとんどのヨットが、30フィ
ート前後のヨットなのに、その中を一艇だけ
小さなヨットが、大きなヨットの中に混じり
ながら、必死にシリウスの後を追っていた。
 隆の話では、それはJ24という24フィ
ートのヨットで、アメリカなどでは同じJ2

4のヨット同士が競い合うレースが盛んに行
われているらしい。

 そう言われてみれば、麻美は、アメリカで
大学のヨット部が開催していたヨットレース
を見たときのヨットが、今、目の前を走って
いるJ24と同じような丸っこい形をしてい
たなと思った。

 シリウスは、圧倒的に大差で先頭を走って
いるが、2位以下のヨットは、抜きつ抜かれ
つのデッドヒートを繰り返していて、迫力あ


るレース展開をしていて、本部艇の上で観戦
している麻美たちも楽しめた。

 麻美たちが苦労して打った折り返しのブイ
を、シリウス以降の先頭集団がぐるっと周っ
て戻っていく。
 ラッコは、そこの場所に停泊して後続艇が
皆、周っていくのを目視で確認してから戻る
ことにした。

 一通り、先頭集団が周っていってしまうと
後ろのほうの集団のヨットがやって来る。

 先頭のヨットたちは、乗員が船の横から一
生懸命、身を乗り出してヒールを抑えていて
迫力あったが、後ろのほうのヨットの乗員た
ちには、レースの緊張感はまったく感じられ
なかった。

 皆、のんびりしたものでデッキの上で缶ビ
ールを飲みながら、楽しそうにブイを周って
戻っていく。

 中には、レース中だというのにコクピット
に大きなテーブルを広げて、豪華な料理を並


べて食事しながら走っていくヨットまでもが
あった。

 これが、レース中だというのに、この緊張
感の無さ、これがまた本格的なヨットレース
にはないクラブレースならではの味というか
楽しみなのだろう。

第31回につづく