はじめての入院

ある日、突然どうやってもおしっこが出なくなった・・とてつもなく巨大なアレ- 前立腺肥大症 -との3ヶ月間にわたる大闘病記。

「それでは、ゆっくりしていて下さいね」

 病室まで案内してくれた看護師は、病室の
案内を終えると下階に帰ってしまった。広い
病室に、たった1人になった私は、病室の中
を見渡した。テレビの置かれた細長いデスク
の下の引き出しには鍵が付いており、金庫に
なっていた。貴重品をその中に閉まっておけ
るようになっていた。私は、手に持っていた
トートバッグをぺちゃんこに潰してから、金
庫になっている引き出しに閉まった。鍵をか
け、金庫から鍵を外すと、鍵に付いていた輪

っかをブレスレットにして腕に通した。
 これで入院している間の貴重品の取扱いは
安心になった。

 時刻は、午後の2時を過ぎていた。今朝ま
での自分だったら、お腹が痛く立ってなどい
られなかったであろう。病室のベッドで一日
寝ていられると思ったら、喜んでベッドの毛
布にくるまり寝たことだろう。しかし、医務
室で若い医師の先生にクダを通してもらい、
お腹の中のおしっこは、全て身体の外の袋に
排出されてしまった。すっかり元気になって


しまった私は、昼間から病室のベッドの中で
おとなしく寝てなどいられなかった。
 腕には点滴を打たれており、おしっこには
クダが通されていて、点滴とおしっこの袋は
キャスターの付いたスティック状のスタンド
にぶら下がっていた。点滴の袋は、棒の先っ
ぽの高いところにぶら下げられていて、そこ
から私の身体の中に腕を通して落ちていた。
 おしっこの袋は、棒の下端のところにある
ハンガーにぶら下げられていて、私の身体の
中を通ったクダから排出されたおしっこが袋
の中へと落ちていた。

その点滴とおしっこの袋がぶら下がったスタ
ンドを転がしながら、病院の中をどこでも好
きなところに移動することは出来た。
 しばらくは、キャスターの付いたスタンド
を転がしながら、入院棟の受付周りや談話室
自販機の前など病院内をあっちこっちうろう
ろ歩き回っていた。
 自販機の前に立って、どんな飲み物が売ら
れているのか確かめてみたり、掲示板に貼ら
れた入院中の食事の献立を眺めて、どんな食
事が出るのかを確かめたりしていた。
 しかし、どうにも暇だった。


「今日って、何か診察しないのですか?」

 入院棟の受付でパソコンにデータ入力して
いた看護師に尋ねてみた。
 明日の朝、泌尿器科の先生がやって来るの
で、泌尿器科の先生が来たら診察してもらう
までは、身体がこれ以上悪くならないように
病室で静かに安静にしている以外には、特に
やることは無いらしかった。
 朝早くに腹痛で家を飛び出してから、病院
に来て急に入院することになってしまって、
家を出てくる準備は何もしていなかった。

 家には、大切な愛猫を残してきてしまった
ままだった。

「もし、今日は特になにも診察が無いのなら
ば、1回家に帰ってもいいですか?」

 私は、入院の準備も何もしてきていないの
でと看護師に尋ねた。病院の夕食は、夜6時
過ぎ、6時半ぐらいかららしかった。
 夕食の時間までには戻るという約束で、一
時的に家に帰る外出許可が出してもらえた。
時刻は午後の3時近くになっていた。


夕食の6時までもう3時間ぐらいしかない。
 看護師に点滴の袋を外してもらって、腕に
刺さった点滴の針は、外れないように包帯で
ぐるぐる巻きにしてもらって、おしっこの袋
はレジ袋に包んでもらって、持ってきた自分
のトートバッグの中に入れてもらい、外出で
きるようになった。

「慌てなくても良いので、ゆっくり帰宅して
くださいね」

 時間までに間に合わないようだったら、電

話してもらえれば大丈夫ですからと看護師に
送り出してもらって、私は病院を出て自宅ま
で歩いて戻った。
 自宅に着くと、愛猫が出迎えてくれた。ぶ
ら下がっているおしっこの袋に気づき、鼻を
近づけてクンクンさせた。私の病気を心配し
てくれている愛猫の頭を優しく撫でて抱き上
げてあげた。
 しばらく愛猫のことを抱きあげて撫でてあ
げていたが、時間が無い。病院の夕食の時間
までには戻らなければならないのだ。パジャ
マと歯みがきなどの洗顔セットを手に取ると


バッグに放り込んだ。
 トイレの前の廊下には、昨夜おもらしした
大きいものが散らかっていた。さすがに、そ
れを片づけている時間は無さそうだ。
 まずは、自分のトイレよりも愛猫のトイレ
ペットシーツの始末を終えて、愛猫が今夜1
人で過ごしている間もトイレできるように清
掃した。それから愛猫の今夜と明日の朝の食
事を準備しておいてあげなければお腹を空か
せてしまうだろう。食事の準備を終えて、会
社に病気のことを報告し、今夜は病院に入院
になることも伝えた。

 そこまでで時間はいっぱいだった。

 今夜は、愛猫も私もそれぞれ一人ぼっちだ
けど我慢してね。そう愛猫の頭を撫でながら
伝えると、自宅の鍵を閉めて病院に戻るため
に再び出かけた。

 病院に戻ると、時刻は6時を少し回ったと
ころだった。まだ夕食は始まっておらず、な
んとかぎりぎり時間内に間に合ったようだ。

「調子はいかがですか?」


 今朝の緊急外来で診てもらった若い医師が
入院棟の病室まで上がってきて挨拶がてら様
子を見に来てくれた。

 おしっこを抜いてもらって以来、ぜんぜん
元気で回復したことを伝えると、それはあれ
だけ貯まっていたおしっこが抜けましたから
ねと笑顔で答えてくれた。
 緊急外来で診てもらったときは、お腹の痛
みでそれどころではなかったが、その若い医
師は、なかなかの好青年で明るくひょうきん
な性格なことに気づいた。

 聞けば、先生もうちの近くのマンションに
住んでいるらしいことがわかった。本日の勤
務は、これで終わりで、もう自宅に帰るらし
かった。

「夕食です」

 先生が帰ってしまい、病室の自分のベッド
に1人腰掛けていると、プラスチックのプレ
ートに載っかった夕食が看護師によって運ば
れてきた。食べ終わった頃に取りにきますか
らと看護師は帰っていった。


 プラスチックのワンプレートの上に、ご飯
の入ったお椀、お味噌汁の入ったお椀、メイ
ンのおかずがのったお皿、それに副食がのっ
た小皿が置かれていた。
 おまけに小さな小皿にはデザートのフルー
ツまでついていた。それぞれのお皿には、埃
が入らないようにプラスチックの蓋が被せら
れていた。プレートの脇に置かれた箸を手に
取って、プラスチックの蓋を外して食事をし
はじめた。
 味は、レストランの外食の食事に比べると
薄味だった。

 でも、その薄味がマイルドで私の口には合
っていた。
 病院の食事は美味しくないという人が多い
が、この病院の食事がたまたま美味しかった
のか私には、とても美味しい夕食に感じた。
 病院の食事、なかなか悪くないじゃん。

 夕食の間、各部屋の病室の表の廊下には、
食事を運んできたときに使われた台車が、そ
のまま置かれていた。食事が終わった患者さ
んのプレートを看護師さんが病室から台車ま
で戻して、全員のプレートを回収し終わった


ら、台車毎キッチンまで移動して、食事の担
当者がお皿の後片付けをするようだった。

 他の人たちのいる病室を覗きこむと、ほと
んどの患者さんは皆、食事を食べ終えると、
食べ終わった食器は病室のテーブルの上に置
きっぱなしにしていた。
 点滴やらいろいろなものが身体に巻きつい
た患者さんたちの姿を見て、あんなに重症な
患者さんたちだったら食べ終わった食器の後
片付けなんて自分でやるのはつらいだろうか
ら仕方ないだろうなと思った。

 自分は、もうすっかり元気なのだ。自分が
食べ終わった食器の後始末ぐらい自分で出来
る。そう思ったので、食べ終わった食器は、
自分で部屋の表に停まっている台車まで運ん
で、そこの上に戻した。

「ありがとうございます」

 看護師さんは、慌てて台車までやって来て
私の食べ終わった食器を受け取ってくれたが
私自身、自分が食べ終わった食器の後片付け
すらできない重症患者にはなりたくなかった


のだった。自分は食器の後片付けぐらい自分
で出来る元気なんだぞと意思表示したかった
のだった。
 夕食のあとは、病室の廊下を点滴スタンド
を転がしながら、あっちこっちに移動したり
談話室のソファに腰掛けたりして過ごした。

 ピンクの薄い花柄のパジャマを着たおばあ
ちゃんも私と同じように病院の廊下や談話室
をうろうろしながら過ごしていた。

 その他の患者さんたちは、元気がないのか

それとも病室でテレビでも視て過ごしている
のか部屋から出てくることはなかった。
 病室の外でうろうろと過ごしているのは、
私とそのおばあちゃんの2人だけだった。

 病院の消灯は9時だった。

 9時になる少し前に、点滴スタンドを転が
しながらエレベーターに乗って1階の自販機
の前まで行ってみた。
 入院のフロアにあった自販機は、缶やペッ
トボトルに入ったどこにでもある自販機だっ


たが、1階の自販機は紙コップに飲み物が出
てくる自販機だった。

 病院が寒いのか、パジャマでいるせいなの
か温かい飲み物が飲みたくなったので、その
自販機でミルクティーを買ってみた。
 お金を入れて、ボタンを押すと紙コップが
落ちてきて、その中にミルクティーが注がれ
た。自販機の出口の扉を開いて、中から紙コ
ップに入ったミルクティーを取りだして、そ
れを持ってエレベーターに乗りこみ、自分の
病室に戻った。

9時になって病室の明かりが消されて、真っ
暗な中でベッドに入って、毛布をかけ、窓か
ら見える横浜の夜景を眺めながら買ってきた
温かいミルクティーを飲んだ。

「済生会神奈川県病院」につづく