国産初の本格モーターセーラー

横浜マリーナ会員の斎藤智氏が執筆した大人のためのクルージングヨット教室を題材にしたマリン、セイリングクルーザー小説。

クルージング教室物語

第31回

 マリオネットの中野さんは、今年、還暦の
60歳を迎えていた。

 マリオネットは、ラッコと同じ横浜マリー
ナに置いているヨットだった。
 ヨットの形も、ラッコと同じくモーターセ
ーラー、デッキ上だけでなく船内にも操舵装
置が付いているヨットだった。

 ラッコは、フィンランド製のモーターセー
ラーだが、マリオネットは、日本のヨットデ
ザイナーを代表する横山一郎氏設計の国産初
の本格モーターセーラーだ。
 マリオネットが進水したのは、10年前の
湘南だった。

 中野さんが、ヨットを始めたのは50歳の
とき、50の手習いで始めた。
 それまでは、山が好きで若いころからずっ
と登山をしていた。


 そんな中野さんが、初めて乗ったヨットは
当時、隆がクルーで乗っていたヨットだ。

 そのヨットのオーナーのお店の常連さんと
してゲストで乗りに来たのだった。
 海の上で、ヨットのキャビンで料理をした
り、寝泊まりしたりするところが、山にテン
トを張って、そこでアウトドア料理をしたり
寝泊まりするのとよく似ていて楽しいという
のが、中野さんがヨットを始めることになっ
たきっかけだった。

 以来、隆の乗っていたヨットに2、3度乗
りに来て、それから3ヶ月後に突然、34フ
ィートのモーターセーラー、マリオネットを
購入してしまったのだ。

 都心で親の代からの歯医者を開業している
いわゆるお医者さんだからこそ、1000万
円以上もするヨットをポンと購入できてしま
ったのだろう。

「お医者さんは、お金持ちだよな」


 隆は、中野さんのことを羨ましそうな顔で
そう麻美に説明していたが、

「私から見たら、隆だってすごいよ。今やI
T系の会社の社長さんじゃないの」
「え、うちなんか小さな零細企業だよ」
「そうかな?」
「それを言ったら、麻美のパパさんなんて世
界的な貿易の大会社の社長さんじゃん」
「うちのパパの話はどうでもいいのよ」

 麻美は、隆の話を遮った。

 湘南に進水したマリオネットを、横浜まで
持ってくる、廻航のときには、隆も廻航要員
の一人として手伝いで乗っていた。

 隆とマリオネットとの付き合いは、それ以
来ずっと続いていた。

 50の手習いでヨットを始めたばかりの中
野さんのマリオネットで人手が足りないと、
よく手伝いでマリオネットにも乗っていた。

 隆がメインで乗っていたクルーザーのオー


ナーさんは、大学時代のヨット部からずっと
ヨットに乗り続けてきた大ベテランのヨット
マンだったが、50の手習いで始めたばかり
の中野さんのマリオネットは、中野さんも、
隆をはじめとするほかのクルー達にとっても
毎週が試行錯誤のクルージングだった。

 それでも大きな事故は一度も無かったが、
港内で停泊しようと近寄った岸壁の側にあっ
た杭に気づかず、船の横腹を磨ってしまった
り、停泊しようと落としたアンカーをそのま
ま海の底に沈めてしまったり、と小さな事件

はよく絶えなかった。

 その都度、マリオネットの船体にも小さな
傷が絶えなかった。

 ほかの人から見たら、ただの傷だが、隆た
ちにとっては、その傷ひとつひとつが、あれ
はあそこの港に行った時に出来た傷など思い
出があり、感慨深いものだった。

第32回につづく