式根島へ

横浜マリーナ会員の斎藤智氏が執筆した大人のためのクルージングヨット教室を題材にしたマリン、セイリングクルーザー小説。

クルージング教室物語

第50回

 雪はラッコのマスト付近で待機していた。

 いつもラッコでは、セイリングの際はもち
ろん、エンジンを併用した機帆走の場合でも
必ず港を出るとすぐにメインかミズンのどち
らか一枚のセイルは、広げていた。

 だから、新島港を出港した後も、セイルを

上げると思っていたのだ。

 雪だけでなく、洋子や佳代、麻美もそう思
っていたらしくて、マスト付近でそれぞれに
待機していた。

「あれ、皆、セイルを上げるつもりでいるの
かな」

 隆は、マスト付近で皆が待機していること
に気づいて、自分の側に座っていたルリ子に
聞いた。


「うん。そうだと思う」
「まあ、上げても良いんだけど、式根島港っ
てすぐそこなんだよね」

 隆は、すぐ目の前にある島の突端の向こう
を指さしながら、ルリ子に伝えた。

「あそこ?じゃ、上げてもすぐに下ろすこと
になってしまう?」
「そう。だから、このまま機走で行ってしま
おうかと思っているんだけど」
「セイル、近いから上げないみたいだよ」

 ルリ子が、ほかのクルーたちに隆に言われ
たことを伝えた。

 マスト付近に待機していたほかのクルーた
ちも、コクピット内に戻って来た。

 式根島港は、新島港を出てすぐ目の前にあ
る島を目指して、20分ぐらい進んでいくと
突端に突き当たる。
 その突端の裏側に入って行くと、そこに防
波堤があり、その中が式根島港だ。
 大きなわりとしっかりした防波堤の中にあ


るので、周辺の港よりも、嵐など悪天候には
強い港だ。
 悪天候には強いのだが、あまり人気のない
港なので、夏休みでもレジャーボートはあま
りやって来る艇が少なかった。

 人気のない理由は、島の反対側の港には、
熱海などから直航の旅客船があって、観光客
目当てのお店がずらりと並んで栄えているの
だが、式根島港には、そういったお店の類が
少なく、交通の不便なところだった。

「交通の便は悪くても良いんじゃないの。別
に、街中で遊びたくて、ヨットに乗って島に
来ているんじゃないだもの。豊かな自然とふ
れあいたくて来ているんだから」

 麻美は言った。

 ラッコは、式根港内に入港した。

 港内は、新島港に比べると、決して広くは
ないが、停泊しているヨット・ボートの数は
数艇しかなく岸壁は、空きが多かった。


「アンカーを打って、停泊しよう」

 ラッコの船首には、長いバウスピリットが
付いており、その床面には、アンカーが設置
されている。
 隆は、艇を後ろ向きに反転させると、バッ
クで岸壁に着岸した。

「アンカーを打って!」

 着岸する少し手前のところで、パイロット
ハウスにいる佳代と麻美に声をかけた。

 隆の指示を受けて、佳代がパイロットハウ
ス内にあるアンカーの昇降装置のボタンを佳
代が押した。
 ラッコの船首に収まっていたアンカーは、
海の中に落ちて、海底にある岩にしっかりと
着地した。

 あとは、雪たちクルーが、岸壁に移って、
岸壁と船をロープで結べば、これで着岸完了
だった。
 続いて、マリオネットがラッコの隣りの岸
壁に着岸する。


 マリオネットは、ラッコのようにバックで
は着岸せずに、そのまま船首から突っ込む。
 マリオネットの場合は、アンカーを船尾か
ら打つので、船首を岸壁に着岸するのだ。
 マリオネットのアンカーは、ラッコのよう
に既に船体の前方、一部に据え付けられてい
るものではなく、その都度、収納ロッカーの
中から引き出してきて、アンカーに長いロー
プを結んでから、アンカーを海中に落として
いるのだった。

 落としたら、ロープの反対側を誰かがしっ

かり持っていて、着岸の完了と同時にクリー
ト、デッキ上に付いているロープを結ぶ部分
に止める。

 ラッコの方式ならば、重たいアンカーを引
き摺って、船の上を移動しなくてもボタン一
つで済む。
 マリオネット方式ならば、船の前方一か所
からだけでなく、状況に応じてどこからでも
アンカーを打つことができる。

それぞれにメリットはあった。


「いや、エンジン壊れるとはまいった、まい
ったよ」
「まあ、そういうこともありますよ」

 マリオネットは自分でエンジン直せとか麻
美に愚痴ってた隆だが、中野さんの前では笑
顔で接していた。
 そんな隆の姿を、まるで成長したわが子を
見るような感じで麻美は微笑えみながら眺め
ていた。

第51回につづく