最後の入院

ある日、突然どうやってもおしっこが出なくなった・・とてつもなく巨大なアレ- 前立腺肥大症 -との3ヶ月間にわたる大闘病記。

「ごはんです」

 おしっこ袋の使い方レクチャーが終わっ
て、おとなしく病室にいると、お昼の食事
がテーブルに運ばれてきた。

 午後からは、愛猫に会いにお出かけしな
ければならない。急いで、食べて出かけな
ければ、そうは思ってはいたのだったが、
病院の食事がけっこう美味しかったので、
ぜんぶ残さずにしっかり味わってペロッと
食べてしまっていた。

 大事な愛猫が待っているというのに、食
事をゆっくりと味わってしまったのだ。

 帰るためのバッグを抱えて、食べ終わっ
た食器のプレートを持って、病室の表に停
めてある食事の台車まで行って、台車に食
器を戻すと、入院棟の受付に声をかけてか
ら自宅に戻った。

「ただいま!」

 愛猫と一緒に、自分が廊下にばらまいて


しまった汚物を片づけると、ほかの部屋も
片づける。片づけている間に、お風呂が沸
きましたと声をかけてくれたので、愛猫と
一緒にお風呂に入った。

「ああ、気持ちいい」

 愛猫は、身体が濡れるのはきらいなのだ
が、一緒にお風呂に入り、お風呂の蓋の上
で寝転がるのは大好きだった。

「そういえば、今日に退院しても良かった

のか」

 お風呂の中で、愛猫のお腹を撫でながら
午前中、先生にきょう退院しますかと聞か
れたときのことを思いだして、今ごろ気づ
かされた。そうすれば、今夜からまた愛猫
と一緒に寝られたのだった。

「まあ、いいか。あの病院の食事、美味し
かったし」

 私は、家の用事を済ませながら、ぎりぎ
りまで愛猫と一緒に過ごしてから、夕食前


に病院へ、病室へと戻った。

 病室に戻ると、なんだか自分のいた病室
が騒がしかった。廊下側のベッドに、おじ
いさんがやって来ていた。昨夜は、4人部
屋に1人で泊まっていたのだが、今夜は、
もう1人同居人がいるようだ。

「昨日は1人ぼっちだったけど、なんか今
夜は賑やかですね」

 向かい側の窓側のベッドを片づけていた

掃除のおばさんに声をかけた。

「そうね。今日はゆっくり出来ないかな」

 おばさんは、私に答えた。廊下側のベッ
ドのおじいさん以外に、その向かい側のベ
ッドにも、別のおじいさんがやって来てい
た。4人部屋のうち、これで3人分は埋ま
ってしまった。

「明日の朝で、退院だそうですよ」


 泌尿器科の先生に聞いたのであろう、昨
日の若い医師が、今日の仕事上がりの前に
私のところに会いに来てくれた。

「おしっこの袋の使い方を教えてもらった
ら、退院して良いそうです」

 私は、その若い医師に答えた。

「おしっこの袋の使い方は、ぜんぶわかり
ましたか?」

「はい。さっき、看護師さんに教えてもら
いました」

 私は、自分のおしっこ袋の手前に付いた
蛇口を見せながら言った。

「普通に、家のトイレに流してもいいんで
すよね」
「ええ。中身は、おしっこですから」

 若い医師は、私に言った。なるほど、袋
の中身は、ただのおしっこだ。


おしっこなのだから、普通にトイレに流し
てしまっても何の問題もない。
 当たり前のことだったが、なんとなく私
は、医師から聞いて感心してしまった。

「こちらにどうぞ」
「ここか、今日は、ここに泊まるのか」

 若い医師が帰った後に、車椅子で、何人
もの看護師に囲まれて、連れられながら、
1人のおじいさんが部屋に入ってきた。
 そのおじいさんは、私のベッドの向かい

側、部屋で唯一空いていたベッドに寝かさ
れていた。

「明日、娘さんも来てくれますからね」

 看護師は、おじいさんに伝えて、病室を
出ていった。

「夕食です」

 食事担当の看護師が、それぞれのベッド
にプレートに載った食事を運んできた。


 私は、ベッドに起き上がって、ベッドテ
ーブルの前に腰かけ、夕食を食べ始めた。
 ほかの患者さんたちは、お年寄りばかり
だし、きっと看護師さんに付き添ってもら
いながら食べるんだろうなと思っていた。
 しかし、そんなことは全くなかった。

 それまで、ずっとベッドに寝転がったま
ま過ごしていたおじいさんたちが、食事が
運ばれてくると、急に起き上がって、元気
に食べはじめたのには、正直少し驚いてし
まった。

 中でも、一番最後に、看護師さん何人か
に囲まれながらやって来た重症患者さんっ
ぽいおじいさんが、一番最初に起き上がっ
て、カサカサとスプーンがプラスチックの
お椀に当たる音をたてながら、食事をかき
こんでいるのには驚きだった。

「そんなに早く食べたら身体に悪いよ」

 私は、おじいさんの食器のカサカサいう
音を聞きながら思っていた。
 そして、私は、ちゃんとよく噛んでゆっ


くり食べるようにしよう、それに、これが
病院で食べれる最後の夕食なのだから、し
っかり味わって食べなきゃ損だ。

「お熱、計らせてくださいね」

 食事が終わると、廊下側の向こうのベッ
ドのおじいさんのところに看護師さんがや
って来ていた。

「ええ、なに?よく聞こえないよ」
「お熱、計らせてください!」

「え?」

「テレビのイヤホンしているから聞こえな
いんでしょう!話するときぐらい、テレビ
のイヤホンは外しましょう!」

 そのおじいさんは、看護師に叱られて、
罰が悪そうにテレビのイヤホンを自分の耳
から外していた。

「もー、まったく!イヤホンしながら、聞
こえない。聞こえないって、まったくギャ


グなんだから」

 罰が悪そうにイヤホンを外すおじいさん
の姿を見ながら、おかっぱ頭の看護師さん
は、ニコニコ微笑んでいた。
 しばらくして、今度は窓側の、自分の向
かい側のベッドのおじいさんのところに看
護師さんがやって来た。

「先生がね、血栓防止のために着圧ストッ
キングを履きましょうって」

 白い着圧ストッキングを履くことで、関
節の痛みからくる足の先の血栓を防止して
くれるのだとか、おじいさんは、看護師か
ら渡された着圧ストッキングをうまく自分
で履けないでいた。

「履けますか?私が履かせましょうか」

 看護師に聞かれて、おじいさんは黙って
頷くと、看護師がおじいさんから着圧スト
ッキングを受け取り、おじいさんの足に履
かせた。


 昨夜は、私1人だったので、あまり看護
師も病室にやって来なかったが、今夜は入
れ替わり、立ち替わりに看護師が病室にや
って来る。看護師さんにとっては大変なの
だろうが、初入院の私にとっては、なんだ
か楽しかった。

 夜9時、就寝の時間を迎えると、看護師
の出入りも無くなり、それまで賑やかだっ
た病室は、うそのように静かになった。

「なんか飲み物でも買ってこよう」

 おしっこ袋がぶら下がった点滴スタンド
をゴロゴロ転がしながら、1階の自販機に
行くと、そこでミルクティーのコップを購
入して戻ってきた。
 途中、談話室で、きのうのピンクのパジ
ャマのおばあさんと出会った。

 おばあさんは、私と同じように無言で、
静かに点滴スタンドを転がしながら、院内
をうろついていた。
 今夜やって来たおじいさんたちは、看護
師さんたちを呼んでお話したり、しゃべっ


ていないときでも、痰が絡むのかゴソゴソ
といろいろな音がしていたというのに、お
ばあさんは、私と同じように静かに院内を
歩き回っていた。

 最後の病院でのお泊まりを楽しもうかな
私は、自分の部屋のベッドの中に戻り、眠
りについた。

「退院の朝」につづく